ジョージ・ハリスンの映画を観るとジョージが人懐こく愛情溢れる人柄に溢れた人だったというのは
よく判ると思うのですがこの映画を観て俺はふと思うことがあるのです。
それはジョージの人としてのルーツが全てはリヴァプールで育まれた家族の愛情から来ているからだと
いうことです。
ジョージ・ハリスンは1943年2月25日、リヴァプールの郊外のウェイヴァートリー地区という
労働者階級のエリアにあるアーノルドグローブ12番地の小さな長屋で4人兄弟の末っ子として
生まれました。
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ジョージの生家 アーノルドグローブ12番地
この映画には冒頭にジョージの二人の兄貴が出てきますが実は3人兄弟ともう一人アメリカに
移住した一回り近く離れたお姉さんがいるんですよね。
因みにジョージの2番目の兄のピーターはジョン・レノンと同級生で小学校時代はジョンと
同じクラスだったそうな。当時はジョージも同じ小学校だったそうですがなにせ3歳離れて
るから当時は全く面識はなかったらしいけど。
それはさておきジョージのお母さんのルイーズさんというのはとても優しく愛情溢れた人
だったそうです。
ギターに夢中になるジョージを叱咤激励しながら影でずっと支えていたそうなんですね。
そしてこんなエピソードも聞いたことがあります。
ビートルズがハンブルグ時代に知り合ったドイツ人のアストリット・キルヒヘアという女性が
当時のバンドメンバーで恋人だったスチュアート・サトクリフが脳溢血で若くして急死して
しまい、失意のどん底にあった彼女がスチュアートの実家を訪れた事があるそうです。
なんでもスチュアートの実家は中々厳しい家庭だったようでドイツ人のアストリットにも随分と
辛くあたったそうです。
ところがそんなアストリットを見るに見かねたジョージはアストリットを自分の自宅を招待した
そうです。
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ジョージの2番目の家
その時、悲しみにくれるアストリットにお母さんのルイーズさんはこんな言葉を掛けてくれた
そうです。
「いつでも遊びに来てね、ここを自分の家だと思っていいのよ。」と。
そんなジョージのお母さんにアストリットはだいぶ心が救われたそうです。
こんな話もありますね。
まだビートルズがキャヴァーンでプレイしていた時、若いファンに混じって一緒に楽しんで
いたそうですね。更にビートルズに熱狂する若いファンの人達にもとても親しくしていた
らしいですね。
ルイーズさんはステージ上で必死にギターの演奏に勤しむ末っ子のジョージをとても誇りに
していたんだと思います。
こういう微笑ましいエピソードを聞くとなるほどなあ、ジョージってほんとに愛情溢れる両親に
育てられたんだなあと、そういう家庭環境がジョージの後の人格形成に大きく関わっていたんだなあ
と思うのです。
よく考えたらジョージ以外のビートルズのメンバーって両親が離婚していたり片親だったりしてる
んだよね。
どうですか、こういう話を聞くとジョージ・ハリスンのパーソナリティをまた違った角度から
見ることが出来るんじゃないでしょうか?
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